反原発活動のはじまり
大学卒業後、ある大手の音楽会社で働いていたんです。
メディア側というか、マスメディアを使っていろんなことを伝える仕事をずっとしてたわけです。
テレビ、ラジオ、雑誌、新聞、あらゆる媒体と付き合って。CDやレコード、本、コンサートチケットを売ったりしていた。
あるとき、『ホピの予言』という映画を観たんです。
ネイティブアメリカンの中の一番古い部族であると言われる、ホピ族の言い伝えの話。
それが広島長崎の原爆の話とつながったり、ホピの土地からウランが採掘されて原爆の研究とか開発製造に使われている話とか、それがだいぶ大きなインパクトでした。
同じくらいの時期に、当時名古屋に住んでいたんですけど、「東濃ウラン鉱山」の話を聞いたんです。
名古屋から車で1時間以内ぐらいの岐阜の山で、瑞浪っていうところ。そこに、原発から出てくる核廃棄物の中でも特に高レベルの放射性廃棄物の、最終処分場を作るための研究施設がある。
ここに埋めるわけじゃないけど、埋められるかどうかをちょっといろいろやってみたいっていうので、300mぐらいずっと深い穴を掘ったりして実験してる。
実は戦時中は日本も核兵器を作ろうとしていて、そのためのウラン鉱山なんですけど、今も閉山されていない。
その瑞浪に、大泉讃さんっていう陶芸家の方がいて、地元の住民として核廃棄物の研究所のことにいろいろ反対したり、土地を売らないようにする運動をしてたんです。
なんて言うんだろう。だいぶショックだったってこと。
知らないことがあるっていうことに、意識が向いてなかったと思います。
それで、メディア活動を大規模にやっていた、現場にいた人間として、だいぶひっくり返されましたね。
「そんなことがある?」っていう、なんか自分のメディアの捉え方、扱い方に大きく亀裂が入った感じがしました。
メディアを見てた側じゃなくて、作ってた側にいたっていうのが大きくて、見逃せなかったんです。
「なんだったんだぁ!」みたいな。
「オレはインディーズとか、アンダーグラウンドとか知ってるつもりだったけど、全然知らなかったぜ!」みたいな。「日本ってこうなってるのか」みたいな。
かなり、そういうダイナミズムがあった。
それで会社を辞めることにしたんです。
極まってたんですよ、自分の中で。仕事観とか世界観について。
でも、はっきりしてたのは、わからないっていう、どうしたらいいかわからない、なにをしたらいいかもわからない。でもこれは立ち止まらないとわかんないはずだって思った。
立ち止まった直後に、ひょんな流れで友達とピースウォークをやることになって、それを大泉さんが大々的に手伝ってくださったんですよ。新聞社を紹介してくれたりとか。
で、単純に純粋に、大泉さんのやってる瑞浪でのこととかもお手伝いたいしたいと思って、現場に行ったのが大きいですね。
実際にウラン鉱山には警備員がいるし、原発の廃棄物は最終的にどっかに持っていくよねとか、ウランが掘られるところで既に被ばくがあるとか、それをリアルに体感して。
だからもう、逃げらんなかったです。
世界をもう一回見直して自分の仕事を見つめ直そうって考えていたときに、自分の道のど真ん中にドンと置かれた感じだから。見ないふりとか全然できねぇみたいな。「へー」とは言えなかったですね。
それからいろいろな市民活動に関わっていったことで、「活動家」と言われるようになったんですけど、実際には、イベンターをやってたんだと思います。
例えば、地元のおじいちゃんおばあちゃんがやる、戦時中なにがあったかみたいな展示会とかがあって、手伝いに行くとします。おじいちゃんおばあちゃんが10人ぐらいいる中に、音楽業界の現場上がりのオレが入ったら、どう考えてもバリバリ働くでしょ?
気づいたら会議の進行役もやったりして。
で、「若者向けに話をするのは私達じゃなくて、あなたみたいな人がやった方がいいんじゃない?」ってなったり。
いろんなことがあって。気づいたらイベントの企画を自分でもするようになるし、司会進行もするようになるし、映画の前説で原発の話をするようになるし。そうしたら、今度は原発の話だけしに来てほしいって言われるようになったり。
そうして、「その場合イベントとしてどうしましょうかね?」っていう、イベント企画のコンサルみたいなことをして、気が向いたら自分でそれをやるっていうことをしてた。
もちろん、自然なこととして、署名活動をやったりとか、電力会社に陳情に行ったりとか、そういう政治活動と言われればそうだなっていうことにもコミットしたり、自分でそういうことを立ち上げたりしてたけど、いろんな活動の延長線上にある感じがしますね。